彷徨とは精神の自由を表す。
だが、そんなものが可能かどうかはわからない。
ただの散歩であってもかまわない。
目的のない散歩。
癇癪館は遊静舘に改名する。
癇癪は無駄である。
やめた。静かに遊ぶ。
そういった男である。

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■七月某日

No.401

リーディングの準備。『フィロクテテス』の翻訳と英文を読み比べる。

『フレンチコネクション2』を見る。

いやはやしぶいアクション映画だ。ジーン・ハックマンはこのシリーズの前作でアカデミー主演賞を取っており、自身に満ちた演技をしている。脂が乗っている。この演技を見るだけでも価値がある。フランケンハイマーはアメリカよりヨーロッパの街を描くのが上手だ。マルセイユの夜の舗道はきちんと濡れていてくれている。ラストシーンはすばらしい終わり方だ!

突然ですが、わたくし、フランス語を学習し直そうと考えております。

それにしてもまたまたJR東海のバス運転手の話だが、運転中にも飲んでいたことが発覚してのコメントがまた泣かせる。

「車内が暑かったから」
■七月某日

No.402

渡る世間は鬼ばかりだが、親切な方もいて、ニューヨークタイム紙にフランケンハイマーの詳細な訃報が掲載されていると教えられ、ウエブサイトで読む。

大変興味深い記事であった。アイリッシュとユダヤ系ドイツの血を持ち、JFKとは大親友で、ダラスでの暗殺に多大なショックを受け、茫然自失のままフランスに渡って料理教室に通う日々を過ごしていたという。どうりでフランスの町並みを描くのが上手く、登場人物たちが食べたり飲んだりする場面がいいはずだ。映画監督はグルメで酒好きでなければならない。食べる、飲む、ということと映画は連動する。ジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』でジャン・ギャバン達は実に美味そうに、粋に飲み食いしていた。ギャバンが夜食にラスクにバターとかつけて食べるシーンは素晴らしかった。

それにしてもフランケンハイマーの『大列車作戦』は傑作だ。今でも様々な場面を思い出すことができる。最後近く、連合国側のバート・ランカスターとナチスが向き合い、ナチスが自国に運び入れようとした列車のなかのパリの名画の数々について、「ところで君はこれらの絵画の価値がわかるのか?」と尋ね、ゴリラマッチョの軍人ランカスターが絶句してしまうところなんざよかったねえ。

そういえば『グランプリ』というジェームス・ガーナー主演の映画もあって三船敏郎がガーナーのパトロンになる金持ちの日本人を演じていた。

ゴダールに関する最近の論稿が概ね退屈なのは、70年代のような松田、大島,津村的言説と蓮実的言説の対立がなく、蓮実的言説が支配してしまっていることのように思える。

今やゴダールは巨匠なのだからドュボール、アガンベンをネタにして徹底的に批判することが必要だ。

『映画史』を見ながら、ここは何の引用だろうとなんだかんだと学習しながら見ている学生もいると聞くが、過剰に有難がって見ることもないだろうと言いたくなる。
■七月某日

No.403

日本の俳優のレベルは低い。こんなのがなんで出ていいのかと思えるのが、一人前の顔をして舞台に立っている。テレビのせいもあるが、私にも責任がある。

最近、会う人毎に京都の様子を聞かれるが、まだ授業やってないんだって、十月からだって。ちゃんとこの彷徨亭に目を通すようにと教え諭しているというのは嘘だが。

日経紙から『ハムレットクローン』に関する取材を受ける。

朝日カルチャーセンターの秋の講師を依頼され引き受ける。11月である。

小茂根サイスタジオでジェスランの『フィロクテテス』リーディングの稽古。簡単な戯曲ではない。しかも翻訳に難がある。ほとんど台詞になっていない箇所が多い。翻訳者を交えてのテキストレジが必要だが今回はその時間がない。出来る範囲でということになる。
■七月某日

No.404

神保町で『せりふの時代』の編集会議。別役氏、清水氏、小松氏らと今日はどうしたわけか大いに盛り上がる。暑いというのに。ランチョンあたりで黒ビールをひっかけてから小茂根に行こうとしていたのが、会議が長引いたせいで稽古場に直行する。

小茂根に着いたときには少し時間があったので結局スタジオのカフェでビールと昨日ジェスランが食べていて美味しそうだったBLTサンドウィッチを食べる。要するにベーコン、レタス、トマトが挟まっているのね。ところで昨日は私が食べたのはチキンカレーでここの料理は美味しいですよ。

稽古前、ジェスランよりこの戯曲を書いた背景を聞く。1992年当時、ウースターグループの俳優であるロン・ウオーターズからフィロクテテスを素材にしてと依頼されたという。

ロンはそのときすでにHIVポジティヴであり、稽古中も具合が悪く、上演二日目に倒れて公演はそこで中止になった。ロンはボーイフレンドのいるイタリアに渡ったものの死期が近づいているのを感じて望郷の念耐えられず、ニューヨークに帰る飛行機の機上で亡くなった。公演中止から四週間目のことだった。

JFK空港に着いたときは死体で、税関検査もパスポートもいらなかったというわけさ、とジェスランは冗談をいうように笑って語った。

ビールと暑さ転じての冷房のなかのリーディングの稽古ってつらいわ。眠くて眠たくて。

しかし俳優達は立派に戯曲の理解度を深めていて、稽古後のジェスランは上機嫌だった。

福井県の事故が頭から離れず、悲しくて仕方がない。

地元の地蔵まつりで7歳の女の子が境内のろうそくの火が消えるのを止めようと両手をかざし、下にあったろうそくの火が浴衣の袖に燃え移って焼死してしまったという事故だ。

お地蔵さん。

境内のろうそく。

ゆかた。

夏の夕のささやかなしあわせの時が一瞬にして燃え尽きてしまう光景。

周りは小さい女の子ばかりでなす術をもたなかったという。当人の苦しみはもとより、すぐそばでそれまで元気でいたナニチャンが燃えてしまった一部始終を見てしまっていた彼女達は終生その光景を「あの夏」として忘れることができないだろう。

親御さんたちの気持ちはいかばかりのことだろう。浴衣を着て恐らくうきうきと出かけていったわが子が燃えてしまった。涙が出る。

私には子供がいないがここ数日事故の光景と周辺をいろいろと想像し、涙が出てくる。

あの夏。夏は悲劇を引き寄せる。暑さという理不尽をしょって。

日本のヒートアイランド現象は異常だ。土を戻せ。便利な生活などいらない。みんな田舎に帰れ。
■七月某日

No.405

『フィロクテテス』本番。

一回通し稽古をして、六時本番。

ジェスランが明らかに緊張している。日本初演である。

ジェスランはニューヨーカー特有の粋と優雅さ、皮肉屋であり同時に気が利いていて本当の意味でセンスがよく、私の真のアメリカの友人である。

私はなぜか女性とゲイと仕事をするのに合っている傾向がある。日本人外国人に限らずだ。男はどういうわけか敵愾心や競争心を私に持つらしく、こちらは自然に振舞ってもあちらは突っ張ってばかりといったケースが多い。

私はゲイの人々が好きだ。彼らは優れた才能と美意識、センスを持ち、ひどく傷つきやすい。

日本の演劇がつまらないのはゲイが牽引していないからだ。世界的に見てもこれは異様な光景とも言える。相変わらず日本の劇界は退屈なマッチョが仕切っているのである。

ただここで確認しておきたいのはいくら好きだとはいうものの、やっぱ男と一発やる気にはならない。やったとしても、まあキスどまりだな。同じ肛門でもなぜか女性のはいいけれど、男のはやっぱちょっと引くね。

本番は実に良かった。これまで分からなかった部分が理解できた。こういうことがあるから戯曲と俳優の力は不思議である。稽古でもないことだ。観客という他人を前にして緊張と集中を背負った俳優から吐かれて初めて戯曲の言葉は生きる。

『フィロクテテス』は90年代、エイズという伝染病に犯されたニューヨークの街を描いたあまりに痛ましい、聖なる絶望を描いた都会の劇である。

急に決まった公演だがお客さんも三十人近く集まった。

俳優達も良かった。いいときは褒める。

上演後、スタジオを出たところのテラスでわいわい。パトリックやアダムもいて国際色豊かな場になって、英語、フランス語も飛び交い、まことにいい雰囲気だ。

鴻氏は、どこで買ったのか知れない派手な柄シャツを着ている。生活感がなく、それが妙に似合っている。

その後、近くの居酒屋でわいわいは続く。

ジェスランとハンブルグでの再会を期し別れる。
■七月某日

No.406

日曜日。

ぐったりとだらだらと過ごす。

今週から第三エロチカの稽古が始まる。今年は何回キレルだろうか。ストレスフルな夏の始まりである。私が退団したいときには誰に退団届けを提出すればいいのだろうか。
■七月某日

No.407

『スターウォーズ・クローンの攻撃』を見る。

いざとなると強いヨーダを見て左朴全のエピソードを思い出す。普段は松葉杖をついてよぼよぼしているのが、ロケバスに乗り遅れたときは、杖を小脇に抱えて、「待ってクレー、ずびずばー」と駆け足で追ってきたそうだ。

それにつけても、ジョージ・ルーカスのこの最新作を見ると、また何百回目かの、映画は死んだという呟きを吐かざるを得ない。ハリウッドは映画に生命を吹き込み、そして圧殺し、全世界にその死臭を撒き散らす。これこそがまさしくテロだ。
■八月某日

No.408

いよいよ『フリークス/パゾリーニ/ショー』の稽古が始まる。

初演の『フリークス』は1987年、パルコパート3で上演された。20世紀最大の宗教である資本主義への懐疑を描いた劇を言わば80年代当時渋谷の商業地域のシンボルであったパルコで上演したわけだ。この仕掛けのために、以来私は危険な劇作家として札付きになったわけだった。

反家族の思想をも拠所にするこの劇は、資本主義のほころびが露呈している今こそ現実感を帯びて蘇る。

自分でいうのもなんだが、この劇はまったく今である。二項対立という概念が消失したなどというのはたかだか80年代という時期だけの幻想だったことを今テロの時代を迎えている私達は知っている。『フリークス』は80年代、表向きは一切の対立がないとされたときに、対立を描いた劇だ。

オリジナルではフリークスのファッションショーをデザインするファッションデザイナーがパゾリーニという名を語るのだが、今回はさらにパゾリーニそのものに肉薄し、パゾリーニが思考したコミュニズムのユートピアと絶望感を召喚している。補助線にグラムシとドュボール。

これは私にとっての、コミュニズムは可能か?という問いである。

稽古後、『鏑屋』で煮込みとレバ刺し、生ビール。

なんか元気だわ、俺。
■八月某日

No.409

アイバン・ヘンから送られてきたビデオ二本を見る。アイバンが女優をやっているのをドキュメンタリーにした番組のものと、本人の出演はない演出作品の舞台記録。

稽古。

なんだか元気だわ、俺。

なぜだろう、なぜかしらとつらつらと思い出すに、去年の八月なんか早稲田のワークショップ二本に『ニッポン・ウォーズ』2バージョンと都合四本抱えていたわけだ。くたびれるに決まっていると気がついた。
■八月某日

No.410

稽古。

ちょっとくたびれたわ、俺。

帰り、ひさしぶりに池袋の『屯』に寄る。

女将、72歳がほぼひとりで仕切っているが広い店内でもあり無理があり、ここ数年は行っても閉店であることが多い。

女将はこの夜、なぜか私に自分の出生から今までの軌跡、女の一生と向かいのビル工事にまつわる界隈の噂について語り続け、零時近くになる。

この店には誰か正直者の誠実な助太刀が必要とされている。

『屯』を守る。徹底して守る。
■八月某日

No.411

公開稽古。お客さん、けっこう集まる。

やっぱり元気だわ、俺。でも休憩でものを食べると途端に集中力がなくなるから、やっても無駄だと気がつく。

夜、フランソア・オゾンの『海を見る』と『サマードレス』を見る。

そういえばオゾンの新作『焼け石に水』を、ファスビンダーの戯曲を原作にしているということもあって試写会の招待をもらっていたのを思い出す。見逃してしまった。しまったな。

そういえばこの夏、『ベルリン・アレクサンダー広場』がアテネフランセで上映されるのだな。

シングルモルト飲んで寝る。
■八月某日

No.412

稽古。

稽古場には劇団員の決意と意地に満ちた緊張感にあふれている。

今から言うのもなんだが、今回のこの作品はおもしろくなりそうだ。

それにしてもよく27歳かそこらのときにこんな戯曲を書いたものだ。
■八月某日

No.413

稽古。

とにかく、『フリークス/パゾリーニ/ショー』が多分今年最後の私の作る舞台であるから、皆さん、お見逃しなく!
■八月某日

No.414

稽古。酷暑は続くよ。てれんこてれんこ稽古場に向かう。

早稲田から今年のワークショップの案内が届き、去年の今頃に思いを馳せる。

帰り、『鏑屋』で煮込み、レバなどをがつがつ食べる。
■八月某日

No.415

稽古前、池袋『山吹』でうな重を食べる。

『昭和天皇』が出版されているのを見つけて買う。数ヶ月前『風花』でも話題になっていたものだ。よく講談社が翻訳、出版に踏み切ったものだといった話題である。上巻だけを先行させたのは、まずはそれで右翼他、様々な方面の反応を見ようということと想像する。

今回の稽古場では徹底して嫌なやつをやろうと思っていたのが、どうしても人の良さが出てしまい、最中ふざけたくなる。ふざけてしまう。三時間まじめな顔を保っているのは無理である。

辻君と美穂ちゃんの離婚危機の記事が早くも女性誌に出たのを受けて「これがほんとに辻妻が合わない」というスペクターのジョークに大笑いする。

夜、冷やしておいたシャンパンを空にする。
■八月某日

No.416

自主稽古。

オゾン『ホームドラマ』、『クリミナル・ラヴァーズ』を見る。

冷房が嫌いなので、部屋は扇風機だけを回している。

暑いなかでビデオを見ていると途中で眩暈に襲われる。それでも見続ける。
■八月某日

No.417

二回目の公開稽古。

中野君が客席にいることに気がつく。

がんがんとへたっぴいな演技に注文をつける。殊に女性陣はほとんど素人同然である。そのことに今更ながら驚く。くたびれる。

シュミット『今宵かぎりは』、『ヘカテ』を再見。

『亜麻色の髪の乙女』を歌う偽者が逮捕されたが、実は私の偽者がいるらしいのである。このあいだ、さる人物から「よく都立大の近くの飲み屋に行かれるとか」と言われて身に覚えもないので、「へっ」とか言っていると、「川村さんはいろいろなところに出歩くから忘れるのでしょう」などと勝手に解釈されてしまった。その店は明大マンドリン部出身者がオーナーを務めていて、そこに同じ大学出身である演劇の川村が出没するらしいのである。

私は考え込んでしまった。私は行っているのだろうか。

以前クレジットカード会社から身に覚えのない請求をされたときも同じ思いだった。

知らない私が日暮里のキャバレーとか北千住のクラブとかで遊んでいるのだ。郵送時ポストから盗まれたカードを悪用されたとわかったのだが、随分としみったれたところで遊ぶやつだと盗人に同情してしまった。

そのときも瞬間私のドューヴルが日暮里のキャバレーではしゃいでいるのかと冷え冷えとした気分になった。

私の偽者が飲み屋で狼藉を働いていないことを祈る。

いっておくけど私の飲み方は実に静かですからね。議論と説教は大嫌い。めんどくさい。
■八月某日

No.418

暑い。稽古。
■八月某日

No.419

昼間、図書館に資料集めにいったり、銀行に支払いにいったりするうちに、税金とか納めることに暗鬱たる気分に陥り、そのせいもあってかどうか、新宿で熱中症に似た症状に見舞われ、しばし安静にする。
■八月某日

No.420

前日の後遺症があるも稽古に向かう。

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