「第三エロチカ」の30年 1980-2010

1984年「ジェノサイド」公演用宣伝写真

第三エロチカとは…

1980年川村毅主宰、作・演出・主演「世紀末ラブ―ぼくとあたしのトルコ学講座―」(明大前宇宙館)にて小川みゆきと旗揚げ。
当時川村毅は明治大学政経学部二年生、初期の劇団メンバーは、農学部一年先輩の宮島健、演劇学科一年後輩の深浦加奈子、商学部一年後輩の有薗芳記、同学年英文科の海老原洋之、同級生の郷田和彦、木村千秋、佐々木英樹ら明治大学演劇研究部の学生が中心だった。
その舞台は「過剰な」「過激な」「ラディカルな」という形容に彩られた評価を受ける。
1986年川村毅が「新宿八犬伝 第一巻―犬の誕生―」にて岸田國士戯曲賞を受賞し、社会的注目が高まり、新しいメンバーが多数入ってくるようになる。
1990年代は時代と作品の変質と共に海外での評価・活動が高まる。劇団の財産となった「マクベスという名の男」は、松村藤樹から笠木誠・海老原洋之・川村毅の三人のマクベスと坂本容志枝のマクベス夫人、吉村恵美子の魔女3、工藤真由美の老婆のメイド、石井浩二郎から水口勲のバンクォー、哀藤誠司のマクダフらのメンバーにより世界各国の演劇祭に招かれ高い評価を得た。劇団員の美術家・加藤ちかによる舞台装置の畳は、共に世界各国を旅したが、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の解散記念展の展示終了をもって廃棄された。
2001年、14年間封印していた初期代表作「ニッポン・ウォーズ」を当時のままの演出版と改定演出版とで上演。この時点で劇団員は40人を越え、同世代のチームだった劇団は、18歳から43歳までの集団となっていた。この公演をもって劇団活動に一区切りを付けることとし、2002年ティーファクトリーを設立。10名ほどのメンバーは残り、ティーファクトリー内の俳優集団劇団として、2010年迄の期限付きでワークショップやスタジオ公演を続けた。劇団員だけで創った川村毅新作としての劇団最終公演は、1997年「オイディプス,WHY?」である。
2010年30周年にティーファクトリー公演として「新宿八犬伝」を25年掛けて完結、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館による解散記念展、シンポジウム、川村毅初期未発表戯曲リーディング等一連の事業をもって、第三エロチカ30年の歴史に幕を下ろした。

第三エロチカ 劇団員連名 (紙資料による)

1980年5月25日(日)於:井の頭公園 第三エロチカ旗揚げ
川村 毅
小川みゆき
1980年11月旗揚げ公演
有吉和哉
鈴木隆彦
郷田和彦
深浦加奈子
木村千秋
堤 祥一郎
1981
佐々木英樹
笠間富士子
石川はつ乃
井上康生
1982
宮島 健
有薗芳記
海老原洋之
四倉幸彦
田沢文博
香取早月
西山裕子
木村昌子
市村美鈴
1983
直井レイ子
村松恭子
石井浩二郎
芳地隆之
柳沢久仁子
奥村 潔
加藤ちか
1984
黒澤幸代
保月ゆかり
剱持 彰
剱持 晋
西村吉世江
佐久間勝
昆野博史
1985
吉村恵美子
水内清光
笠原真志
松村藤樹
星野静香
田口 茂
北嶋美和子
西原 悦
福岡一郎
柿沼敬子
大野道乃
伊藤紀克
奥隅京香
1986
哀藤誠司
洪 勝基
安田敦子
桜庭早仁
1987
平井佳子
平木真寿美
1988
坂本容志枝
岡 義憲
真木愛子
小倉崇昭
和田圭史
山中紳吾
岡田好永
松浦 努
山崎千津子
十河恭子
岡本純子
工藤真由美
和田江理子
伊藤 進
恩塚貴子
1989
水口 勲
辻 美香子
湯本裕子
杉浦英治
平尾天成
五十嵐弘幸
二野宮理沙
1990
神 由紀子
吉田幸三
森 理恵
松浦靖浩
1991
笠木誠
村田祐二
松本真一
丹羽克子
萩尾和万
小口ゆり
大石真由美
吹田菊子
高野義子
1992
伊澤 勉
小高 仁
日野治美
大久保栄一郎
1993
野並哲郎
中谷隆信
若尾千鶴子
1994
熊野将人
菰田永宜
野村和美
1995
登山貴弘
高崎恒男
佐名木 仁
宮沢雪絵
1996
永野裕史
臼井武史
中島 都
1997
清田直子
竹内泉
友田憲宏
菊地 学
佐幸明実
松本操子
新田啓博
1998
関 美智子
1999年
遠藤香織
ほりゆり
西村和宏
山本由起子
宮部愛子
浅沼 尚
真す美
玉山 悟
中谷真由美
2000
片倉裕介
藤本裕子
森岡里美
長友智郷
和田あゆみ
2001
河村真奈
五十嵐正
稲葉 統
稲葉 恒
鈴木哲也
斉藤 巌
武田頼政
野村義則
三次宏史
宮川 文
山下芙裕視
2003
赤星範光
清水まりか
中村 崇

1993年「マクベスという名の男 A Man Called MACBETH」
第一回リトアニア国際演劇祭招聘公演 ヴィルニス最後の夜

※全上演記録は、旧ページ内T's Archivesにあります

2010/30周年記念事業:早稲田大学演劇博物館展「第三エロチカの時代1980-2010 解散記念展」

2010年9月13日から2011年2月5日まで開催。http://www.waseda.jp/enpaku/

関連企画:
10月5日(火)18:30〜早稲田大学大隈小講堂
「第三エロチカの時代」シンポジウム 唐十郎氏、島田雅彦氏、川村毅

2月3日(木)18:30〜早稲田大学小野記念講堂 
「川村毅未出版初期作品リーディング」
川村毅が20-22歳時に執筆した未出版初期作品をダイジェスト・リーディング

「世紀末ラブ−ぼくとあたしのトルコ学講座−」1980年第三エロチカ旗揚げ公演作品
「爆弾横丁の人々」1981年
「チャイルド・オンリー」1982年
「世紀末ラブ−西暦2008年のロミーシュナイダー−」1982年※この作品は当時の記録映像が復刻出来たため、一部上映にて紹介。

出演:
伊澤 勉(92年〜第三エロチカ)
中村 崇(03年〜第三エロチカ)
椎谷陽一(08年〜Tfactory公演に参加)
小寺悠介(08年〜Tfactory公演に参加)

安藤玉恵(MASH)
林 蘭(劇団AUN)
大畑早苗
斉藤安紀
※女優陣は川村毅が早稲田大学文学部客員教授時代の在校生

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宮島 健、川村 毅

文芸協力:波田野淳紘
演出助手:小松主税

主催:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館


第三エロチカ最終イベント・リーディングの模様 撮影:宮内勝

「第三エロチカの時代」 川村 毅

第三エロチカの三十年間は、大きく三期に分けられる。
第一期は、旗揚げからほぼ十年間の八十年代。私の作・演出による舞台群、「ラディカル・パーティ」、「ニッポン・ウォーズ」、「ジェノサイド」、「新宿八犬伝」、「フリークス」といった上演がならぶ。現在世間に流布している第三エロチカのイメージはおおむねこの時期の舞台に拠っている。

第二期は、九十年代前半。海外公演が毎年のように続いた時期で、私にとっては、演出家の時代とも呼べる。1989年、昭和から平成にかわったこの年に、劇団は私の演出による三島由紀夫の「近代能楽集」を上演している。この頃、私は劇作に興味を持てなくなっており、演出家が古典を新たに読み直すというヨーロッパにおいてはごくまっとうな上演をしてみたかった。小劇場系の若い作家兼演出家が、他者の戯曲、しかも新劇の古典的なレパートリーを演出することなど、当時は信じられない光景ではあったのだが、小劇場=主宰者の劇作・演出という固定化された小劇場シーンの暗黙のスタイルをぶち破ってやりたい思いもあった。世は小劇場をブームとして持ち上げていたが、私はまったく信じてはいなかった。
 さらに私は「マクベス」を「マクベスという名の男」と変換して演出し、これはドイツの国際演劇フェスティバルに招待されたのを皮切りに、以後毎年どこぞの国の演劇フェスティバルに招かれることになる。今一番心に残っているのは、旧ソ連から独立して一年と間もない年に開催されたリトアニアの首都ビリニュスでの公演だろうか。まさしく戦争後の土地での公演のような趣があった。「こんな時だからこそ演劇が必要なのだ」というのが、演劇祭の主旨であり、以後の私の演劇人生に大きな影響を与えた。

第三期は、九十年代後半。私は劇作に再び興味を持ったが、物語を書く気が起きなかった。私のポスト・ドラマ時代とでも呼べるだろうか。ハイナー・ミュラーのポスト・ドラマ戯曲に影響を受け、『東京トラウマ』、『オブセッション・サイト』が生まれた。九十七年『オイディプス,WHY?』ではドラマを書いたが、この公演が実質上の劇団最後の公演といえる。劇団員だけの上演に書き下ろした主要な舞台がこれで終わっているからだ。
一期の舞台群によって、第三エロチカのイメージは、「過激な」、「過剰な」、「ラジカルな」、「アナーキックな」といった冠に彩られ、それらだけで判断すると反時代的に見られがちだが、私としては終始時代の子のつもりだった。単純に時代に逆らう、背を向けることからのエネルギーだけではなく、十分それらのいちいちに寄り添い、寝ていた。ただ「時代と寝る」その寝方が、著しく独特で唯一無二の存在だった。

この展覧会は、いわば第三エロチカの葬儀だが、三十年という寿命は小さな劇団にとっては決して若死にとは呼ばれない年月だろう。劇団でやれることは十分にやった。

これで、終わりだ。悔いは、なし。

(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・館報103 2010年9月13日号掲載「第三エロチカの時代1980-2010 〜解散記念展〜」に向けて)

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